開拓使石狩缶詰所 - ishikari石狩ファイル no.0125-01 2011年10月10日発行...

1
開拓使石狩缶詰所 ■発行:石狩市教育委員会 いしかり砂丘の風資料館 TEL/FAX:0133-62-3711 http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/ 石狩ファイル No.0125-01 2011年10月10日発行 開拓使は、北海道で産業を振興させるため、「札幌 麦酒醸造所」(後のサッポロビール)や「札幌味噌醤 油醸造所」、「真駒内牧牛場」など全道各地で多くの 官営事業を行いました。石狩に開設された「開拓使石 狩缶詰所」もその一つです。缶詰工場はほかに別海や 厚岸、エトロフ島など5ヶ所に建てられましたが、日 本で最初にアメリカ製の製缶機や製造機械を導入し、 本格的な缶詰の生産を始めたのは石狩缶詰所でした。 石狩缶詰所で事業が始まったのは、明治10(1877)年10月10日のことです。工場 は、石狩川左岸河口近くの船場町(旧石狩町役場跡、現在の石狩市観光センター付近) にあり、敷地面積はおよそ1,300坪ありました。敷地内には製造工場と倉庫、職人が寝 泊りする宿舎や鍛冶場、氷室などが配置されていました。工場に設置された缶詰製造用 の機械は、アメリカより330ドルで購入した手動式のものでした。従業員は所長(石橋 俊勝)のほか、アメリカ人技師U.S.トリート(当時66歳)と助手W.S.スウェット(同 25歳)、開拓使の役人、そのほか11人の伝習生、ブリキや鍛冶職人など、総勢19人で操 業にあたりました。また製造の技術は、トリートが伝習生に指導し、彼らが生産を担い ました。 製造された缶詰は、東京や横浜はもとより、遠くアメリカやフランスの万国博覧会に 出品するなどして、好評を得ました。しかし、当時は国内での需要は少なく、製品はお もに欧米へ輸出されました。 明治11(1878)年4月、U.S.トリートが開拓使長官に報告した文書によると、石狩 工場で生産された製品は、明治10年10月から翌年3月までに、サケ12,092缶、スモーク サーモン769本、カキ3,226缶、シカ肉9,358缶、牛肉222缶、などとなっています。 その後、明治13(1880)年にフランス製の缶詰用蒸気器を購入、サケの酢漬缶詰の試 作に成功し、翌14年の生産高はおよそ8,100缶、その生産額は1,100円となりました。 石狩缶詰所は、明治15(1882)年に開拓使が廃止されて三県が設置されると農商務省 へ移管、さらに16年には北海道事業管理局へ、さらに19年には北海道庁所属となります が、この年に官の事業としての操業は中止され、わずか10年ほどの歴史に幕を閉じまし た。 明治20(1887)年、民間に払い下げられた工場は高橋儀兵衛(後に「高橋合資会 社」)が引き継ぎ、資金や人材不足などの課題を抱えながらも、石狩での缶詰生産事業 は明治45(1912)年まで存続されました。 ★クラーク博士と石狩 石狩缶詰所が創業する1年前、札幌農学校教頭のクラーク博士は石狩を訪れ、出島松 造(石狩工場でアメリカ人技師の通訳)とサケの缶詰を試作しました。クラーク博士が 7缶、出島松造が18缶を製造したという記録が残っています。なお、10月10日は「缶詰 の日」。開拓使石狩缶詰所の創業日を記念し、日本缶詰協会は昭和62(1987)年に制定 しました。 (木戸口道彰) (1)石狩町(1985)石狩町誌/中巻1.石狩町. (2)札幌市教育委員会(1981)さっぽろ文庫19/お雇い外国人.北海道新聞社. (3)鈴木トミエ(1996)石狩百話.石狩市. べつかい あっけし ふなばちょう ぎひょうえ でじま まつ ぞう 開拓使石狩缶詰所

Upload: others

Post on 27-Aug-2020

9 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 開拓使石狩缶詰所 - Ishikari石狩ファイル No.0125-01 2011年10月10日発行 開拓使は、北海道で産業を振興させるため、「札幌 麦酒醸造所」(後のサッポロビール)や「札幌味噌醤

開拓使石狩缶詰所

■発行:石狩市教育委員会 いしかり砂丘の風資料館 TEL/FAX:0133-62-3711 http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/

石狩ファイル No.0125-01 2011年10月10日発行

 開拓使は、北海道で産業を振興させるため、「札幌麦酒醸造所」(後のサッポロビール)や「札幌味噌醤油醸造所」、「真駒内牧牛場」など全道各地で多くの官営事業を行いました。石狩に開設された「開拓使石狩缶詰所」もその一つです。缶詰工場はほかに別海や厚岸、エトロフ島など5ヶ所に建てられましたが、日本で最初にアメリカ製の製缶機や製造機械を導入し、本格的な缶詰の生産を始めたのは石狩缶詰所でした。

 石狩缶詰所で事業が始まったのは、明治10(1877)年10月10日のことです。工場は、石狩川左岸河口近くの船場町(旧石狩町役場跡、現在の石狩市観光センター付近)にあり、敷地面積はおよそ1,300坪ありました。敷地内には製造工場と倉庫、職人が寝泊りする宿舎や鍛冶場、氷室などが配置されていました。工場に設置された缶詰製造用の機械は、アメリカより330ドルで購入した手動式のものでした。従業員は所長(石橋俊勝)のほか、アメリカ人技師U.S.トリート(当時66歳)と助手W.S.スウェット(同25歳)、開拓使の役人、そのほか11人の伝習生、ブリキや鍛冶職人など、総勢19人で操業にあたりました。また製造の技術は、トリートが伝習生に指導し、彼らが生産を担いました。 製造された缶詰は、東京や横浜はもとより、遠くアメリカやフランスの万国博覧会に出品するなどして、好評を得ました。しかし、当時は国内での需要は少なく、製品はおもに欧米へ輸出されました。  明治11(1878)年4月、U.S.トリートが開拓使長官に報告した文書によると、石狩工場で生産された製品は、明治10年10月から翌年3月までに、サケ12,092缶、スモークサーモン769本、カキ3,226缶、シカ肉9,358缶、牛肉222缶、などとなっています。 その後、明治13(1880)年にフランス製の缶詰用蒸気器を購入、サケの酢漬缶詰の試作に成功し、翌14年の生産高はおよそ8,100缶、その生産額は1,100円となりました。

 石狩缶詰所は、明治15(1882)年に開拓使が廃止されて三県が設置されると農商務省へ移管、さらに16年には北海道事業管理局へ、さらに19年には北海道庁所属となりますが、この年に官の事業としての操業は中止され、わずか10年ほどの歴史に幕を閉じました。 明治20(1887)年、民間に払い下げられた工場は高橋儀兵衛(後に「高橋合資会社」)が引き継ぎ、資金や人材不足などの課題を抱えながらも、石狩での缶詰生産事業は明治45(1912)年まで存続されました。

★クラーク博士と石狩 石狩缶詰所が創業する1年前、札幌農学校教頭のクラーク博士は石狩を訪れ、出島松造(石狩工場でアメリカ人技師の通訳)とサケの缶詰を試作しました。クラーク博士が7缶、出島松造が18缶を製造したという記録が残っています。なお、10月10日は「缶詰の日」。開拓使石狩缶詰所の創業日を記念し、日本缶詰協会は昭和62(1987)年に制定しました。

(木戸口道彰)

(1)石狩町(1985)石狩町誌/中巻1.石狩町.(2)札幌市教育委員会(1981)さっぽろ文庫19/お雇い外国人.北海道新聞社.(3)鈴木トミエ(1996)石狩百話.石狩市.

か い た く し い し か り か ん づ め し ょ

基本

自然歴史文化

石狩厚田浜益

ま こ ま な い

べ つ か い

あ っ け し

ふ な ば ち ょ う

ぎ ひ ょ う え

で じ ま   ま つ

ぞ う

開拓使石狩缶詰所